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東洋医学の歴史

 

  東洋の伝統医学を大きく分類すると、ユナニ医学(中東で発展した医学)、アーユルヴェーダ(インドで発展した医学)、そして中国に起源を持ち東アジアに広まった中国医学があります。
  中国医学の基礎は鍼灸、湯液、養生から成り立っています。

  古代、広大な中国の大地の中で、それぞれが独自の場所で誕生して発達し、後にそれらが統合され高度な医学として編纂されていきました。今から2000年前の鍼灸の医学書として『黄帝内経』があり、湯液(中医薬、漢方薬)では『傷寒論』『金匱要略』などで、今でも大切な文献として利用されています。鍼灸医学において『黄帝内経』の『素問』、『霊枢』、『難経』の内容から現代日本の鍼灸の基礎はすでに出来上がっており、陰陽学説、五行学説、蔵府、経絡、腧穴、病因、治療の原則など、現在にも引き継がれています。

  鍼灸医学は黄河流域に生活していた漢民族の医学であると考えられています。漢字文化圏を中心に広がり、東アジアの国々の医学として長い間重要な役割を担ってきました。日本へ伝来したのは6 世紀とされるが、朝鮮半島の人々との交流はそれ以前より長く続いており、中国医学は、朝鮮半島経由でかなり早くより日本へもたらされていました。

  日本では、701 年の「大宝律令」の医事制度「医疾令」には、針師、針生、針博士があり、初めて公的に鍼が国の医学に位置づけられました。大和時代や奈良時代、平安時代の初期には、中国医学(漢方)、朝鮮の医方(韓医方)、日本の医療(和方)の三者がそれぞれ役職を担っていたと考えられています。

  平安時代から鎌倉時代に至り、日本は貴族社会から武家社会へ移行しますが、時代の激動のため宗教への救いが求められ、僧医の需要が高まりました。室町時代になると、僧医以外にも、眼科、金創、産科などを専門とする医師が生まれ、また、民間では灸治が盛んになっていきました。更に、中国から医師を招いたり、留学したりして、積極的な学術交流がなされました。

安土桃山時代には、後世方派を立ち上げた曲直瀬道三が李朱医学をもとに随証療法を主導しました。また、この時期には、金・銀の針を作り、打鍼を考案し、腹診を重視した御園流、入江頼明の入江流、また吉田意休を開祖とする入江流など、その後に深く影響を与える流派が台頭しました。

  江戸期は、前期は後世方派が引き続き主流でしたが、中期の元禄以降になると、古方派が台頭しました。江戸期を通して、西洋医学がオランダ経由で日本にもたらされ、日本で独特の発展をしていた漢方にも影響を与えました。鍼も、安土桃山から江戸前期の流れの中から杉山和一の管鍼法が生まれ、細い鍼や鍼管を使った微細な刺激法へと独自の変化が生まれた。また、灸は、石臼や唐箕などを使った精製度の高い艾を製造して、より安全で質の高いものが量産されるようになりました。
 

  現代の日本鍼灸には、陰陽五行理論ベースの『黄帝内経』系の古典的鍼灸、現代中医学の技術で行う中医学的鍼灸、現代西洋医学を基礎とした医学的鍼灸、スポーツ鍼灸や美容鍼灸、リハビリ鍼灸などそれぞれの専門科鍼灸があります。

  現代の鍼灸は、中国医学系伝統医学で用いられる治療法の一つで、補完・代替医療とみなされることもあり、世界の医療現場でも取り入れられています。日本では「医師」の他「はり師」「きゆう師」のみがこれを行う事ができます。20世紀後半よりは欧米においても有用な医療技術として認識されて活用されるようになり、これを受ける形で、世界保健機関(WHO)は、“鍼に関する会議”を開催し、1999年には、鍼治療の基礎教育と安全性に関するガイドラインを提示したました。2010年、UNESCOは「伝統中国医学としての鍼灸」を無形文化遺産に指定しました。  

   2018年、漢方薬や鍼灸(しんきゅう)など日本や中国の伝統医療が、世界保健機関(WHO)の総会で認定されました。国際的に統一した基準で定められた疾病分類である「国際疾病分類」(ICD)に、伝統的な東洋医学の章が追加されました。ICDは1900(明治33)年に初めて国際会議で承認、日本でも同年に採用されています。約10年ごとに改訂がなされ、現在は全22章から成り、日本や中国などに根差した「伝統医療」が新しい章として加わることになりました。病名や患者の体質を示す「証(しょう)」が約300項目程記載されました。

 

今後も、東洋医学は皆様の健康のために発展し続けるでしょう。

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